私のユリーカ 幻想画家:福本晋一のブログ

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zoom RSS H.P.ラヴクラフト論〜文通好きのアウトサイダーの限界

<<   作成日時 : 2018/04/15 23:23   >>

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久々に、20世紀最大の恐怖小説家とも言われるラヴクラフトの代表作『ダンウィッチの怪』を再読する。

ラブクラフトの恐怖小説ははっきり言ってそんなに怖くはない。怖いというよりは気持ち悪い。ともあれ、優れた恐怖小説の武器である鋭さはないし、文体、物語はこびは、あるときは研究論文のようであり、あるときは新聞記事のようであり、あるときは梗概でも読んでるような固さだ。しかしそれでも結構コアなファンがいて、私なども忘れたころに読みたくなるところがあるのは、おそらくは、ぎこちない自閉的ひとりよがりの心地よさみたいなものがあるからではないかと思う。

事実、ラヴクラフトは一種の自閉症であった。家に閉じこもり、安っぽい怪奇雑誌にぼつぼつと自作の怪奇小説をときおり寄稿していただけで、プロの作家とはいえなかった。文章添削の仕事もしていたというが、一番たくさん書いていたのは、ファンや、三流雑誌の同人的作家との手紙のやりとりだという。それは創作の量をはるかにしのぐ異常な量だという。

創作より手紙を彼は優先していたのだ。これは彼の孤独からすると仕方がなかったことかもしれないが、同時に彼が真のプロになれなかった理由ではないかと思う。ここでいうプロというのはただ、「それで食べている」という世俗的な話ではなく、自分の存在を賭けていたかということである。たとえばゴッホの絵はきわめて素人っぽく、実際生前は全然収入になってないが、それでもゴッホの絵はプロの絵であるというコンテクストでの意味である。坂口安吾が言ったように、真の作家の仕事というのは、俳優、歌手のように現世のファンを相手にするものではなく、もっと大きな世界、時間、人間という全体そのものと対照されてあるもののはずだ(もちろんその中に現世のファンは含まれるのは含まれるわけだが)。

ところが、ラブクラフトは、ファン、友人との手紙のやりとりに生の、自己の存在の喜びを見出してしまった。繰り返すが、ラヴクラフトの恐怖小説は、人間の本質に鋭く迫るような、つまりは人間の根源を映すものとして恐怖を扱っているという印象を受けない。「恐怖」ですらない感じがする。上述したようにラヴクラフトの小説における感情的キーワードは、「恐怖」よりも、「気持ち悪さ」、「不快感」、「嫌悪感」、それも、『醜い生物に感じる気持ち悪さ』である。ラヴクラフトは執拗に、これを描写する。しかし、それは具体的過ぎるがゆえに稚拙で感染力、喚起力は弱く、本当に彼がそれを怖がっていた、あるいは気持ち悪がっていたのか疑問に思えるほどである。

むしろ彼は、気持ち悪いと思ったものに対するネガティヴな感情を誇張することに固執していた気がする。

これは、彼の有名な人種偏見にも該当するかと思う。ラヴクラフトが人種偏見を持っていたのは有名で、彼がニューヨークを嫌ったのは、そこが世界の人間、つまりは異人種の集まるところであったからだという。確かに彼が描く怪物たちの住む古代都市における「目もくらむような高い柱」というのが、ニューヨークの摩天楼の投影であることは間違いないと思われるが、人種偏見に関しては、彼が恐れたのは異人種の異相でなく、自分がそのような世界、真の世界的世界、新しい世界から疎外されているという感覚がゆえの、一種の逆恨み的なものではなかったかと思うのである。というのも、ラヴクラフトの創造した「気持ち悪い怪物」たちは、当初こそは、彼の人種偏見の無意識の象徴だったのであろうが、彼はだんだんとその「気持ち悪い怪物」たちに対して、自己投影をしだすからである。

すなわち、いわゆる「クトゥルー神話」のさきがけとなった中篇『クトゥルフの呼び声』などでは、怪物クトゥルフは、書き手の「私」の、つまりは人類のまったくの敵だが、その後の『ダンウイッチの怪』では、怪物と人間は混血している。しかもその混血児は、異常な早熟、長身、山羊のような顔と、まるでラヴクラフト自身の特徴が反映されているようである。そして晩年の傑作『インスマウスの影』に至ると、書き手の「私」は、怪物たちの血をひくものであることが最後に分かる。最晩年の傑作『時間からの影』も、人間と怪物の精神の入れ替わりがモチーフとなっている。

彼の嫌悪している「醜い生物」とは彼自身であったのではないか。

事実、ラブクラフトは、手紙の中で自らを「地獄のように醜い容貌をしています」と書いているのみならず、小さいときから母親に「あなたは醜い。だから人とつきあってはダメ」といわれ続けてきたという。このような教育が彼を世捨て人にさせたことは別に想像力を働かせなくても理解できることだ。ラヴクラフトの母は夫を失ったあと息子を溺愛したという。溺愛しながら「あなたは醜い」というのは、わけが分からないが、わが子を一般的な美の基準から見た場合、醜いと思いながら、その子が何にもまして可愛いというのは別に矛盾している心理でもないだろう。ただ、わざわざ口に出して「あなたは醜い」という部分だけが解せないのは残るにしても。

どちらにせよ、この母の言葉が事実となると、ラブクラフトが、醜い(と自分が思った)人間や怪物を嫌悪(しようと)したことも、同時に、それらに自己投影しだしたことも、特に理解に苦しむことではなくなりはしまいか。

さらに上述したように、ラヴクラフトは短い結婚生活で一度ニューヨークに暮らしているが、そこで多くの異人種が闊歩しているのを見て恐怖と不快を抱き、それが太古、地球に飛来してきてたいろんな種類の怪物の伝承であるクトゥルー神話の芽となったわけであるが、ラヴクラフト自身、この地に入植してきたアングロサクソンの末裔であり、結局は同じ穴のムジナ、同じ「飛来してきた怪物」なわけである。それはクトゥルー神話前の初期の短編『アウトサイダー』で最初から取り上げられていたことなのだ。(やはり自身が怖ろしい怪物であると最後に分かる短編)

「あなたは醜い。だから人とつきあってはダメ」――この母のひとこと、そして自身もまた実は正統のこの国発祥の人間ではなく入植者(怪物であること)が、ラヴクラフトの生涯の創作テーマを、「醜い怪物」とさせたのだ。

しかし彼にとって大きな問題は、自分自身が醜いか否かではなく、(ラヴクラフトの容貌は個性的であるにしろ、醜いというほどのものではない)、病弱、劣等感、引っ込み思案などの理由から、むしろ人づきあい、したいのに、できないところにあったのではないか。彼は自分を貴族的ジェントルマンだと考え、それゆえ売文を天職とは考えなかったと自分で言っているが、実はこれなども、自作を積極的に売りつけることができない(事実そうだった)対人恐怖症的な引きこもり的性格を、正当化しようとしての後付けの強がりなのではないか。

しかし、彼はのち、文通という手段で、少なからずの人々と「つきあう」ことができた。そのつきあいは、彼の人間関係への飢餓の癒しになった。おそらくは創作よりもずっと。だから彼は嬉々として、原稿より、便箋にペンを走らせることを優先させたし、事実それによって創作より大きな満足を得ていたと思われる。のちに「クトゥルー神話」と呼ばれるようになった宇宙年代記にしても、ラヴクラフトの純然な妄想創作というよりは、文通による同人活動によって、仲間内で楽しく発展していった部分が大きいのである。こういう意味で、誰が言ったか忘れたが「ラヴクラフトは、ポーのような常識を超えんとする人格ではなく、基本的に普通の人だった」というのは当たっていよう。はっきり言えば、ラヴクラフトの苦悩、歪みはそれほど、存在根源に根ざしたものではなかった。

本人がそう望んだのだろうから、それでいい。しかし、こういうところにラヴクラフト作品の真に傑作と呼べる領域には達しえぬ限界もあるかのように思う。実際のところ、ラヴクラフトの作品の大きな欠点として、恐怖の実体を詳らかに描きすぎるところが指摘できると思うが、それは、後期の『狂気の山脈にて』や『時間からの影』で描かれた怪物たちの日常、社会描写に特に顕著であり、ここなどはもっともつまらない部分で、先ほども言ったような同人文通の反映、文通相手へのサービスといった感があり、つまりは、同人文通が作品に余計なノイズ、悪影響を与えた部分だと私には思えるのである。おそらくは邪神の名前を他の作品で出すのも同じ同人サービス的理由によるものと思われる。実際にはラヴクラフトの作品は一作一作が独立しており、たとえば中篇『インスマウスの影』には、邪神クトゥルーの名前こそ出てくるが、話自体はクトゥルーがいなくとも成立している。基本的にクトゥルー(クトゥルフ)の話は『クトゥルフの呼び声』だけなのである。

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