ベートーヴェンの最高傑作は何か?

ベートーヴェンの肖像を描いてみました。

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ところで、ベートーヴェンの曲は好きなのですが、ちょっと頭で考えすぎじゃないかと思うことがあります。観念が先行してしまいがちのときがあるというか。私が一番好きなのは、ベートーヴェンをベートーヴェンたらしめた交響曲第三番英雄、すなわちエロイカですが、それはこの曲があまり頭で考えられてないからなのが大きいです。伸び伸びしている。理屈っぽく考えてない。

しかしエロイカをほめる人も最終楽章だけはショボイなんていいます。確かに主題がバレエ曲『プロメテウスの創造物』の終曲に使われたものそのままなんてところは、たとえお気に入りの主題だったとしても手抜き感さえ感じないこともない。

が、これは私は仕方がなかったことだと思います。

なぜなら、エロイカの作曲においてベートーヴェンは最初から全力投球したからです。最初から全力投球で第1、第2、第3楽章と仕上げていったので、これら革新的な楽章たちを超える楽章で最後を締めるなどというのは無理難題になってしまった。だから出来あいの軽い主題を持ってきて結末をつけた、とこういうことではないでしょうか。

ならばこれでよし。初めて自分を自分たらしめる大霊感がやってきたのだ。あとのことなど考えずに最初から全力投球すべきなのである。その全力投球にすべてがある。今、力を出し惜しんだら、その後もない。だからエロイカのフィナーレが軽いのを私は問題にしません。

しかしベートーヴェンにしてみれば、エロイカのフィナーレの小粒さには不満が残ったようで、次の新交響曲においては、最終楽章に大フィナーレを持ってこようと考えだします。

ここから彼の「頭で考える音楽」が本格的に始まります。

ところが最終楽章に大フィナーレを持ってくる。この構想にはクリアしなければならない大きな難関がありました。最後に大フィナーレをもってくるなら、今度はエロイカみたいに最初から全力で飛ばしていくわけにはいかないということです。むしろ前の三つの楽章は、抑えぎみのものにしなくてはならない。そうして最後にドカーンを持ってこないとドカーンがドカーンにならない。しかし前半を抑え込んでは、曲全体の力が失われてしまう。さあどうしよう。フィナーレにのみ楽器をたくさん追加するという方法もあるが(実際それも行ったが)、それは物理的な話にすぎない。根本的な解決案ではない。

では、どうすればいいか?

『抑えこみながらも力のある曲にする』 これしかない。

この矛盾したかのような難題の解決にベートーヴェンは4年も「考え」こみます。そしてこの難問を解決した曲を世に送り出しました。

その曲とは? ジャジャジャジャーン。いや、もったいぶってるのではなく、そのものずばり、つまり交響曲第5番ハ短調「運命」です。このジャジャジャジャーンの第一楽章でも、あるものが抑え込まれています。

それはメロディー。抑え込んでいるというより排除しているというべきか。タタタタンというシンプルな動機だけで曲を統一し、仕上げた。この有名な第一楽章を一分の隙もない、完璧だと人は言いますが、それは、メロディーを排したシンプルな主題を用いることによって可能となったと言えるでしょう。

次の緩徐楽章(ゆっくりした楽章)では、クライマックスのかたちで主題をまずつくり、そのクライマックスから逆算して全体を構成しています。つまり到達点を先に決めることによって、長くなりがちなベートーヴェンの緩徐楽章をコンパクトにまとめることもできた。というか、第五自体が意外とコンパクトな作品で、演奏時間35分程度というのはベートーヴェンの交響曲としても長いほうではありません。

第三楽章の抑え込み方はきわめて単純。使われている旋律は、前のふたつの楽章の主題のヴァリエーションにすぎません。冒頭の低弦は第二楽章の主題の短調ヴァージョンであり、ホルンが咆哮する主題は第一楽章のタタタタンの変形である。中間部の「ドレミ」「ミファソ」「ソラシ」といった三音で組み合わされたフーガは最終楽章の主題の前借り、予告です。

そして、それら前半楽章の主題が混沌に交じり合い、沈潜する経過部を経たのち、そのまま巨大化していき、悲願の大フィナーレに突入します。このフィナーレの壮大さ、というか、やかましさについては今さら何も言うまい。しかしこのように抑え込みが入っているので、全体的に第五は堅苦しく、豊饒さには乏しい印象も受けます。

ともあれ、第五運命で、ベートーヴェンは、交響曲の全四楽章を有機的につなげ、全体を物語化することに成功したのだと言えましょう。もっともこのような人工的な操作による持ってゆきかたは、正直、音楽としては馬鹿げている気がしないでもない。しかしベートーヴェンは晩年の大作で、もっと理屈っぽいことをやっちゃいます。つまり第九です。

第九は第五より理屈っぽい。第一楽章冒頭の混沌の無調からニ短調、次には長調の主題が誕生する展開や、第二楽章での高低両ヘ音のティンパニをニ短調にあてる使い方(普通はこの場合ヘ長調かヘ短調にあてる)、さらにはふたつの主題を合体させて変奏するなどという、素晴らしいような、いちいち面倒くさいことしてるような第三楽章などなど。

しかし何より理屈っぽいのは、最終楽章における有名な低弦とバリトンによる前の三つの楽章の拒絶でしょう。もうこれ音楽じゃないです。

実際、第九は変な曲です。何よりもまず、合唱の入った最終楽章が唐突過ぎるからです。第五なら、最終楽章は運命に打ち勝った勝利という解釈でまず間違いないところですが、第九はそういったストーリー性が不明です。よく「苦悩を通じての歓喜」という見解も言われますが、正直、前の三つの楽章は「苦悩」って感じはしません。(苦労して作ってるなという気はしますが) 最後に合唱を加える必然性もよく分からない。つまり前の三つの楽章と最終楽章の関連性が分からない。正直、前の三つの楽章の拒絶なんて演出をして、強引につなげた感じです。

しかし最終楽章における前の三つの楽章の拒絶は、ベートーヴェン自身、理屈っぽい音楽はもう俺は(少なくとも交響曲においては)もうやめたぞ! という宣言だったのかもしれません。有名なバリトンによるセリフは「こんな音ではなく、もっと心地よい音楽に声を合わせよう」ですが、声を合わしたくない「こんな音」とはつまりベートーヴェン自身ががんばってきた理屈っぽい音楽そのものではなかったか。ベートーヴェンは難聴で人づき合いができにくくなり、そのため作曲という行為(と楽譜売込み業)に命を賭けざるを得なかった人なので、頭で音楽を考えるところがあり、それが革命をもたらしたのでもありますが、最後の交響曲の最後の楽章で音楽本来の姿に帰ったのかもしれません。だから最後は形式も無視したひたすらドンチャンと蛮声張り上げて歌う曲となった。テノールの行進曲風の部分など本当にリズムが「ドンチャン♪ドンチャン♪ドンドンチャン」です。ドイツ人はいいことがあると、また酒を飲むとすぐ合唱する。

苦労した難しい仕事のことは忘れましょうという酒飲み歌。こう考えれば、第九が日本では忘年会的に扱われるのも当然のような気がしてきます。

ともあれ初期の第三交響曲エロイカには、そういったベートーヴェンの頭での考えすぎ、堅苦しさ、理屈っぽさがまだありません。純粋に(でもないかもしれませんが)新しい音楽がそこでは伸び伸びと力強く鳴り響いています。少なくともベートーヴェンの9つの交響曲の中で一番豊かなのはエロイカで間違いないと思います。事実ベートーヴェン自身、(第九が出来る前ですが)、もっとも出来のいい曲は何かと聞かれて、第五運命をさしおいて断固とした口調で「エロイカ」と答えています。私としては、我が意を得たりの思いです。

                           おしまい
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