なぜ大和型3番艦の名は信濃なのか?

戦艦大和といえば誰もが知る日本が建造した世界最大の戦艦だが、この大和型戦艦の3番艦は空母に設計変更されている。名前は信濃。空母としても当時世界最大の艦となった。しかしなぜ3番艦の名前が信濃なのだろうか?

旧海軍の戦艦は旧国名をつけられる。これは戦艦から空母に設計変更になった艦の場合も同じであり、だから旧国名なのは問題ない。なぜ大和、武蔵ときて次が信濃かということなのだ。

同型艦の場合、艦名にも共通点が持たされるのがふつうだ。伊勢型戦艦の2隻、伊勢と日向は言うまでもなく皇室ゆかりの地である。長門型戦艦の2隻、長門と陸奥は本州の端同士。大和型の2隻の場合は、古代の首都と現代の首都だ。ならば信濃という名はどこから来たのか。

これには本土決戦時の天皇及び大本営所在地が長野県の松代と予定されたためと言われることがある。つまり信濃は「将来の首都」というわけだ。この説明は一笑に付されることが多い。確かに「首都」は言い過ぎだからだ。だが、私はやはり松代大本営が関わっていたのだと思う。

というのも、信濃が信濃と命名されたのは1944年7月であり、それはちょうど松代大本営の建設が始まった月でもあるからである。

このときに松代大本営の建設が始まったのは、その先月(6月)、マリアナ沖海戦に敗れ、サイパンがアメリカの手に渡ってしまい、東京が米の最新鋭長距離爆撃機B29の射程内に入ってしまったからであった。そしてマリアナ沖海戦では、アメリカにさえなかった装甲飛行甲板を持つ最新鋭空母大鳳が竣工わずか3か月で沈没してしまっていた。その穴を埋めるために、それまでは既成艦の修理を優先するためにむしろお荷物的に放置されていた大和型3番艦を空母に設計変更して完成させることが急がれるようになった。ゆえにその突貫工事のモチベーションをあげるためにも、この機に命名が急いで行われたと考えられるわけである。

つまり、最後の頼みの綱が日本で一番山奥深い信濃であるなら、最後の期待の大軍艦の名も信濃になって別に不自然ではないということである。(ちなみに旧軍艦の名は2候補から天皇が選択するのが慣例であった)

しかし松代大本営も、空母信濃も、同じ運命をたどることとなった。軍艦信濃は引き渡しからわずか10日後の1944年11月29日、横須賀から呉に回航するさい、米潜水艦の雷撃を受けて沈没し、言わずもがな、信濃松代の大本営も使われることなく終わったのである。

『第三都市 幻想画家:福本晋一ウェブサイト』
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukusin/





















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