レンブラントの『読書するティトゥス』を模写しました

欧米で古典絵画の美術館を巡っていて、同じような絵ばかりにあくびが出始めたとき、突然ハッとさせられる絵に出会う、と、それはたいていレンブラントの絵であると、これは私の経験ですが、同じことを書いている人がどこかにおられました。レンブラントの絵の存在感はすごい。

レンブラントは原画と複製の違いが大きい画家です。もちろん原画のほうがずっといい。レンブラントに比べたら同じオランダの四半世紀後輩のフェルメールは、原画と複製の差があまりない。

レンブラントの良さが複製で減殺されてしまうのは、ハイライトの絵具の盛り上げとグラッシ(油で薄めた絵具で透明状に描く方法)との対比・相乗効果が写真では出にくいからだと思います。これまた同じオランダのファン・ゴッホの絵も絵具がタッチの形に盛り上がってますが、ゴッホはまだ「盛り上げ」一辺倒なので、複製でもそれが分かりやすい。

ティトゥス.JPG
読書するティトゥス(模写)F10号


レンブラントが現在、日本での人気において、このふたりの後輩に抜かれちゃったのは(昔は日本でも今よりは人気が高かったようで、レンブラントを目標とした日本人洋画家は非常に多い印象を受けます)、この、「複製では良さが出にくいこと」に起因している気がします。

原画をたくさん持っている欧米ではレンブラントの人気、評価はすごい。「レンブラントは生涯600点の油絵を描いた。そのうちの1,000点が現在アメリカにある」なんてジョークがまかり通ってるほど贋作も多いのだとか。(もっとも現在、レンブラントの直筆油絵の数は、弟子との共作は除外することによって250点くらいに修正されているようです)

一方でレンブラントは聖書を題材としたものが多いから、フェルメールより日本で受けないのだという意見もあるようです。しかし、レンブラント自身(のみならず当時のオランダの画家の多くが)、聖書画、歴史画こそ画家のもっとも栄えある仕事と考えており、レンブラントにも聖書画の名画が多くあるにも関わらず、私は、レンブラントの真骨頂、本質は聖書画、歴史画ではなく、肖像画、わけても集団肖像画にあったと考えます。実際、当時のオランダは美術史上はじめて、歴史画家、風俗画家、風景画家、静物画家など画家の専門化が確立した時代であり、その中でレンブラントがその名声、及び富を得たのも何より肖像画家としてでした。

なぜ、レンブラントの真骨頂が個人肖像画、とりわけ集団肖像画にあったかといえば、『テュルプ博士の解剖講義』『夜警(※これは集団肖像画なのです)』『織物組合の幹部たち』『ユダヤの花嫁』『ある家族の肖像』などを見れば、何も説明要らないでしょう。彼の個人肖像画も十分劇的ですが、複数人の肖像を描かせたときの彼の霊感というか構成力、演出力は飛びぬけています。

織物幹部.jpg
『織物組合の幹部たち』(原画)


反面、彼の聖書画のほうは複数人を描いて劇的にもなっているとはいえ、どこか物足りなさを私は感じます。なんか抽象的なドラマチックさがあるだけで、人物は記号的、アイデアノートに描かれたアイデアだけみたいな、実際に生きている人間の実在感、重量感がない。これは私がキリスト教圏の人間でないからそう感じるのでしょうか? でも、たとえば単純にルーベンスなどの聖書画のほうが肉の実質感がある分だけ、聖書画としては、実在感を出すことに成功しているように思えます。

レンブラントは、目の前に実体がなければ描けなかったタイプの画家ではないでしょうか。想像だけに頼っててはどこかいいところが抜け落ちてしまう。ここら、上にあげたフェルメール、ファン・ゴッホにも通じるものがある気がします。一見幻想画家と呼びたくなりそうなエッシャーなんかもひとつひとつのオブジェ自体は想像じゃ描けなかったらしいですね。オランダ人は現実的な人が多いのかもしれません。

レンブラントの真骨頂は肖像画、生きた人間の肖像、わけても集団肖像画にあった――レンブラントがあれほどの数の自画像を描いたのも、彼の本質が肖像画にあったからだと思います。それはレンブラントにとって、モデルと真正面から向き合い、その本質を見抜こうとする鍛錬の場、自己の真骨頂を発揮できた場であったのだという気がします。













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