「かごめ」と「通りゃんせ」その真の意味

「かごめ」と「通りゃんせ」といえば、日本の二大「よく分からないけどなんだか怖そうな歌を歌いながらあそぶ遊び」で、その歌詞の解釈もいろいろな説があるようだが、歌詞の内容は二義的なことだと思う。歌詞より、遊びそのもののほうが、より本質的で、かつ神秘的だと思うのだ。歌以前に、遊び自体が危機の、怖い状況を形作っているからだ。

「かごめ」では、真ん中で目を両手で覆ってかがまされている子は、その他全員の子供たちによって包囲され、のみならずその包囲陣は例の妙な恐ろしい歌を歌いながら回転し、歌の終わりと同時に回転をやめたかと思うと、おまえの真後ろにいるのは誰か当ててみろと脅迫するのだ。これを当てなければ、彼、もしくは彼女はこの「かごの中」から永遠に出られない。これが危機でなくて何であろうか。

「通りゃんせ」もそうだ。今度は変な門を両手で作るふたり以外の全員が、その門を何度もぐるぐる回りながらくぐらなくてはならない。またぞろ妙なコワイ歌。そしてその門の上に仕掛けられた罠は、歌の終わりと同時にズバッと降りてきて、その瞬間に門をくぐろうとした子を捕まえてしまう。明らかにこれは、危険きわまりない――ことを模した遊びなのである。

そう、「かごめ」と「通りゃんせ」は危機、危険の模写――こう考えてくると、これらの遊びの真の意味も見えてくる。それは、子供という人間の幼体が、将来、社会に出たときに出会うだろう危機の前演出であり、その危機への対策演習、及びそれへの心の準備を持つという役割を持っているのだ。これらの遊びが、ゴムボール野球やお母さんごっこのように大人のやってることを直接真似したものでなく、また大人に教えてもらう遊びでもなく、子供から子供へ、つまり子供たちのあいだで伝わっていくものであるところも、そのことを裏付けているように思う。

目隠しをしているのに真後ろが誰か当てろなどというのはあてずっぽうならともかく、超能力者でもあるまいし、不可能ごとに近いものである。しかし多くの子が当てることに成功する。それは実は、こそっと誰がどの順番で回っているかを両手の隙間から確認し、誰が歌の終わりで自分の真後ろに来るか予測できるからだ。これは反則か。いや、むしろこの反則ができないと永遠にわれわれは「かごの中の鳥」になってしまうのだ。

そもそも規則などというものは、人を「かごの中の鳥」にしてしまうものだ。それを犯さなくては、自由はない。そして、このような縛りというのは社会に出ればいくらでも多い被さってくることである。そのとき人は、反則をしてでも危機を回避しようとする。そらそうだ。危機を回避して生き延びること、それは反則をしないということ以上のプライオリティだからだ。規則が先にあるなんて本末転倒。それに、このような反則は、ばれなきゃ、あるいは皆が見て見ぬふりするなら、何も問題はないのだ! 歌の終わりと同時に降りてくる罠にしてもそうである。誰かに白羽の矢が立つかもしれないとき、(もともと白羽の矢は生贄確定の目印として、当該女の子の家の入口にたてられたもの)それを逃れなくてはならない。そんなことも世の中にはいくらもある。

子供のあいだは親が守ってくれるので危機はない。しかし誰もいつかは親を失う。大人にならなくてはならない。それは子供たちも、分かっている。いや、わかっているというか、自分の体内にその事実が萌芽として当然に存在しているというべきか。その無意識の萌芽がこのようなわけのわからぬ、ある意味理不尽な歌詞による怖い遊びをさせるのではなかろうか。一種の免疫獲得のために。

子供時代はまだいいが、大人の世界はこわい。これは例外の人もいようが、おおかたは事実だろう。まさに人生は「行きはよいよい 帰りは怖い」。しかし、それでもわれわれは生きていく。

この人生「怖いながらも通りゃんせ」――

『第三都市 幻想画家:福本晋一ウェブサイト』
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukusin/















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